【イントラムロス】は日本人の戦跡。第二次世界大戦時のフィリピンを知ろう。 | フィリピン最新情報ブログ

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【イントラムロス】は日本人の戦跡。第二次世界大戦時のフィリピンを知ろう。

美しい教会やスペイン統治時代の面影が残るヨーロッパ風の町並み、

城壁に囲まれたイントラムロスは外国人観光客にとって人気の観光地と

なっていますが、一度訪れると、街内に建てられた多くの記念碑や建造物への

歴史の説明書きに日本人(Japanese)が登場することに気づかれるかと思います。

 

 

本日は、私たち日本人が学校(義務教育)で習わなかった歴史の一部を

フィリピン・マニラのイントラムロスという場所にフォーカスして見ていきたいと思います。

 

 

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"No 1 Victoria was abandoned during the retreat of Filipino-American Forces to Bataan and Corregidor in 1941. Used as barracks by the Japanese occupation forces, it was destroyed during the Battle of Manila in 1945."

「ナンバーワン・ビクトリアは、1941年にバターン戦・コレヒドール戦により、フィリピン・アメリカ軍が後退した際に放棄され、その後日本兵が兵舎として利用したことで知られる。このナンバーワン・ビクトリアは1945年のマニラの戦いで破壊された。」

 

第二次世界大戦で日本が敗退したのち、指揮者となったGHQマッカーサーは

ご存知ですよね?

そのマッカーサーが「アイ・シャル・リターン(I shall return:必ず戻ってくる)」

という言葉を残したことは有名ですが、彼が戻ると言った場所はここ、

フィリピンだったのです。

第二次世界大戦の中盤、日本兵はアメリカ軍を後退させ、1942年ー1945年の間、

フィリピンを占領しました。

 

1944年、フィリピンへ逆襲に戻ってきたマッカーサー率いるアメリカ軍と日本軍との間で

フィリピン中で激戦が繰り広げられ、当時から首都であったマニラもその激戦地の一つと

なりました。

 

 

War_3.jpgのサムネイル画像

"This memorial is dedicated to all those innocent victims of war. Many of whom went nameless and unknown to a common grave or never even knew a grave at all. Their bodies having been consumed by fire or crushed to dust beneath the battle of ruins.

Let the monument be the gravestone for each and every one of the over 100,000 men, women, children and infants killed in manila during its battle of liberation, February 3 - March 3, 1945. We have not forgotten them nor shall we ever forget.

May they rest in peace as part now of the sacred ground of the city, the Manila of our affections. "

「この記念碑は、戦争で亡くなった罪のない犠牲者に捧げるため、ここにつくられました。

亡くなった犠牲者の中には、名前も判別できず、共同墓地にも入れられず、お墓で葬られることがなかった方が多くいました。彼らの身体は、激戦の中で火に焼かれ、砕けて塵となりました。

この記念碑を1945年2月3日~3月3日の間に命を失った10万人以上の男性、女性、子供、幼児の墓石としたいと思います。我々はこれまでも彼らの尊い命を忘れることはなかったし、今後も忘れないでしょう。

現在は神聖な聖地となった我々の愛する街、マニラで平安に眠ることをお祈りします。」

 

第二次世界大戦の終戦日は1945年の8月15日ですが、同年1945年の2月~3月にかけて、

イントラムロスでも激戦が繰り広げられ、10万人以上の罪のないフィリピン人市民が

命を失ったと言われています。

 

 

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"They were mainly victims of heinous acts perpetrated by the Japanese imperial forces and the casualties of the heavy artillery barrage by the American forces. The battle for Manila at the end of World War 2 was one of the most brutal episode in the history of Asia and the Pacific.

「亡くなった10万人以上の犠牲者の多くは、大日本帝国軍(日本軍)による凶悪な行為とアメリカ軍による大砲の集中砲火による死者でした。第二次世界大戦の終盤に行われたマニラの戦いはアジア、そして太平洋においてもっとも残酷なエピソードの一つとなりました。」

 

フィリピンで行われた戦争は、フィリピン対日本、フィリピン対アメリカではなく、日本対アメリカ。

この二国に巻き込まれた10万人以上のフィリピンの尊い市民たちがを失いました。

 

日本軍による凶悪な行為"heinous acts perpetrated by the Japanese imperial forces"とありますが、

このマニラの戦いで、日本軍はフィリピン人市民を教会に閉じ込め、爆破をしたと語られています。

 

 

その舞台となった教会のひとつに、サン・イグナシオ教会があります。

War_SanIgnacio.jpg

 

サン・イグナシオ教会は1945年の爆破後、爆破された後の形がそのまま

残されていましたが、2013年より爆破前の美しい教会を再現しようと、

復建が開始されました。

 

日本軍がマニラ・イントラムロスで教会を爆破して罪のないフィリピン人を

殺したなんて、受け入れがたく目を背けたくなるような過去ですが、

約70年前にフィリピンでアメリカ軍と日本軍が戦争をしたのは事実です。

 

私の祖父も第二次世界大戦中フィリピンへ来てアメリカ軍と戦った一人でした。

祖父はマニラではなく、ルソン島中部の山岳を行き、フィリピンに渡った日本兵全体の約80%、

50万人以上の日本軍が亡くなる中、奇跡的に生きて帰り、終戦後、

捕虜生活をフィリピンで送った後に日本へ帰国し、家族を持ち、

孫として生まれてきた私に、子供の頃から、涙を浮かべて本人が

経験した戦争の話ばかりしました。

 

現代のフィリピン人は、第二次世界大戦中にフィリピン国内で何が起きたかを

もちろん学校などで習い、知っていますが、日本人にもアメリカ人にも優しく

おもてなししてくれます。

 

そんなフィリピン人に感謝し、敬意を持って接したいものです。

著者プロフィール

著者イラスト

ペンネーム: レッチェフラン
学生時代に20カ国を旅した後、何度も帰ってくるようになった一番好きな国フィリピンに7回目の渡航でついに移住。バギオ⇒セブ⇒マニラと2度引越しをし、マニラ在住。初対面の人に100%タガログ語で話しかけられるフィリピン人容姿・振舞いを習得済。明るいフィリピン人に囲まれて、ハプニングだらけな刺激ある毎日を楽しく生きています。趣味はズンバ(ダンス)と読書。

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