セブ島のお越しの皆さんは、ラプラプという言葉あるいは地名を聞いたことがある方もいるかと思います。それが何か既にご存知の方もいるかとおみますが、今回はそのラプラプに関する情報をご紹介したいと思います。
ラプラプというのはもともと昔のフィリピンの英雄の名前です。どうして英雄になったか、そのラプラプを説明する中でも欠かすことのできない1日に関して特にご紹介したいと思います。
それは遡る事今からおよそ500年前の1521年4月27日のマゼランとの激闘があった日。マゼランと聞くと次に思い浮かぶのが、世界一周という単語が出てくる方も多いかと思います。しかし、厳密にはマゼラン自身は世界一周を達成してはおりません。マゼランが率いたスペインの艦隊が、途中立ち寄ったフィリピンでのマゼランの死後も航海を続けて、そして世界一周を果たしたのです。
では何故、マゼランは命を落としてしまったのか、そこに立ちはだかったのは、フィリピンの英雄ラプラプの存在を無くして語る事はできません。
マゼランはフィリピンに立ち寄った際、鉄砲や大砲、大きな軍艦などを武器に、いくつもの部族をキリスト教への改宗などを目的として次々に服従させていきました。
しかしそこでマゼランの要求に応じなかったラプラプにマゼランは激怒し、やがて来たる1521年4月27日に決闘が行われたのです。
マゼラン側は重装備と大きな軍艦があるため、半ば余裕だと見ていたのでしょうか。一説では、通常の人数よりも少ない人数でラプラプとの戦いに臨んだとも言われています。
ラプラプは武器がそこまで強くはありませんでしたが、彼はそれ以上に賢かったのです。自分の島であるマクタン島のことは、もちろん部外者のマゼランより詳しく、決闘の場をマクタン島内のとある遠浅の海岸にしたのです。そこには理由がありました。
指定された場所にやってきたマゼランは、もちろん大きな大砲などを備えた立派な軍艦で来ました。しかし、潮が引いており、大砲も届かない、船で近づくことも出来ない。仕方なく、マゼランは船を下りて歩いて進んでいきました。
この時点で半分以上マゼランの勝ち目はなかったように思います。
そしていざ決闘が始まると、どうでしょう。
マゼラン軍は立派な武装をしていました。鎧などでガチガチに固めて。しかし、海岸では、思うように行動ができません。この事実がラプラプを後押ししました。
それに対して地元のラプラプ軍は、マゼランたちに比べると軽装ではありました。しかし、水場では重たい鎧はただの邪魔でしかなく、結局マゼランはラプラプ軍との戦いに敗れて命を落としました。
この戦い、武装力を比べたら、もちろんマゼランの方が有利だったでしょう。例えば、普通に戦っていたとしたら、マゼランは勝っていたかもしれません。しかし、その以上にラプラプは頭を使い、相手の有利な点を無にするだけでなく、弱点にさえしてしまったのです。
この話を実際にサンペドロ要塞の中で壁画を目の前にしながら、その決闘のいきさつの説明を聞いた際には、素直にラプラプすごい、そういう発想があったのかと感心しました。
その偉大な姿から、マクタン島内には彼の大きな銅像が作られており、その広場は市民の憩いの場所となっている他、ラプラプ市というマクタン島内の都市名になっていたり、セブ島・マクタン島で有名な魚の名前はラプラプです。
いかに彼が偉大だったかが分かります。彼は東南アジアの人としては、初めてヨーロッパの人を相手に勝ったとも言われており、その偉大さをここマクタン島に住んでいると感じずにはいられません
実力が上か、下か、武装力が上か、下か、軍艦の数が多いか、少ないか、それだけでは戦いの勝敗はつきません。全ての考察と戦いの過程の先にある結果1つ、それだけが重要な場合もあるのですね。勝てそうかどうか、ではなく、どう勝つかを考えたラプラプ、その歴史を感じることのできるセブ市内観光ツアーというツアーもではサンペドロ要塞やサントニーニョ教会などを巡ってガイドによる日本語での説明とともに歴史を学びながら、ランチとショッピングも付いたお得なツアーもあるので、こういったツアーにご参加されるものもいいのではないでしょうか。
(issei)